「日本で売れているSaaSを、そのまま海外に持っていけばいい」──そう考えている経営者がいるとすれば、SpecteeCOOの根来諭さんの話は、良い意味で期待を裏切るはずです。 プロダクトをフィリピン向けに一から開発し直し、代理店との関係を丁寧に育て、JICAのスキームを活用しながら公共セクターへの人脈を構築する。 「海外展開は、国内展開の延長線上にはない」というリアルを、根来さんは体を張って証明しています。
SNSの投稿から災害情報をリアルタイムに解析し地図上に可視化する「Spectee Pro」が、なぜフィリピンで必要とされるのか。 そしてSaaSスタートアップが海外市場を攻略する上で、何が一番の壁になるのか。 根来さんに詳しく聞きました。
根来 諭(ねごろ さとし)さん 株式会社Spectee(スペクティ)COO兼海外事業責任者。 ソーシャルメディアを情報ソースとした災害・リスク情報サービス「Spectee Pro」を展開。 SNSの画像・テキストをAI解析し、地図上で災害発生場所をリアルタイムに特定する独自技術を持つ。 現在はフィリピンでの有償展開を推進し、2026年7月からはベトナム版のローンチも予定。 ASEAN市場全体の攻略を見据えたグローバル展開を陣頭指揮している。
Spectee Proとは何か──SNSが「災害センサー」になる
──まず、スペクティーが展開しているサービスについて教えてください。
「Spectee Pro」は、ソーシャルメディアを情報ソースとして、災害やリスク情報をリアルタイムに集約・可視化するサービスです。
TwitterやFacebookなどのSNSに投稿された画像や文章をAIが解析して、「どこで何が起きているのか」を地図上に特定します。 さらに地震の震度情報、河川の水位データ、交通渋滞情報といったオープンデータとも重ね合わせることで、より精度の高い状況把握ができます。
たとえば、ある地域で洪水が起きたとき、気象庁の発表よりも先にSNSで現場の写真や動画が投稿されることがあります。 Spectee Proはそれをリアルタイムに検知し、どの道路が冠水しているか、どのエリアに被害が出ているかを即座に把握できる。 報道機関であれば速報に活用でき、インフラ企業であれば設備の被害確認に、小売チェーンであれば店舗の安否確認と営業判断に使えます。
日本では自然災害が多いこともあり、すでに多くの企業・自治体に使われていますが、この技術が最も必要とされる市場のひとつが、フィリピンだと考えました。
なぜフィリピンを選んだのか──「5つの条件」が揃った国
──海外展開の最初の国としてフィリピンを選んだ理由は何ですか?
フィリピンを選んだのには、明確な理由が5つあります。
- まず「災害大国である」こと。 フィリピンは台風・火山噴火・洪水・地震と、あらゆる種類の自然災害が頻発する国です。 つまり、私たちのサービスの需要が構造的に存在している。 「売れるかどうか」の以前に「必要とされているか」が明確で、それが最初の条件でした。
- 次に「英語が公用語である」こと。 プロダクトをローカライズする際、最初の一歩として英語対応が基本になります。 フィリピンは英語が公用語で、ビジネスの場でも英語が通じる。 言語の壁が最小化されることは、スタートアップにとって大きなアドバンテージです。
- 3つ目は「デジタルネイティブな国民性」。 フィリピンはSNSの利用率が世界的に見ても非常に高く、災害時にも市民がSNSで情報を発信する文化が根付いています。 私たちのサービスはSNSの投稿が情報ソースになるため、現地での情報量が多いほどサービスの精度が上がる。 フィリピンはその意味で、非常に相性が良い市場です。
- 4つ目は「日本との関係が良好であること」。 日本とフィリピンは歴史的にも友好関係が深く、日本企業に対する受容性が高い。 ビジネスを始める際の心理的・外交的な障壁が低いことは、初期の市場参入において重要な要素です。
- そして5つ目が「ASEANの足がかりにする」という戦略的意図です。 フィリピンで実績を作ることで、ASEAN全体への展開に弾みをつけたい。 すでに2025年7月からはベトナム版のローンチも予定しており、フィリピンはその第一歩という位置づけです。
プロダクトを「作り直す」という決断
──フィリピン版のプロダクト開発で苦労したことはありますか?
最大の決断は「プロダクトを一から作り直す」ことでした。 日本版をそのまま英語に翻訳すればいいという話ではなく、フィリピンのSNS環境・言語・情報ソースに合わせて、AIのモデル自体を再構築する必要がありました。
フィリピンでは英語だけでなく、タガログ語やセブアノ語など現地語の投稿も多い。 それらを正確に解析してリスク情報として判断するには、日本語モデルとはまったく異なるアプローチが必要です。 また、対応する災害の種類や行政の区域区分なども日本とは異なるため、地図との統合も再設計が必要でした。
「海外に出る=既存プロダクトの翻訳」という発想では、SaaSの海外展開は失敗しやすいと思います。 現地の情報環境・ユーザー行動・インフラに合わせて、プロダクトの根幹から見直す姿勢が必要です。 それはコストと時間がかかりますが、それをやらないとそもそも現地で使えるサービスにならない。
JICAのスキームを活用した市場参入
──フィリピンでの事業立ち上げに、JICAのスキームを活用されたとのことですが、どういう経経ですか?
最初の段階では、JICAの協力スキームを通じてサービスを無償提供するところから始めました。 JICAは途上国支援の一環として、日本の技術・サービスを現地に導入する取り組みをしており、そのスキームを活用することで、フィリピンの公共機関へのアクセスが格段に開けました。
無償提供と聞くと無料で提供してしまったら事業にならないと思われるかもしれません。 でも、これには大きなメリットがあります。 まず、現地政府・行政との信頼関係を構築できる。 そして、サービスを実際に使ってもらうことでフィードバックが得られ、フィリピン向けのプロダクト改善ができる。 「実績」と「関係」を同時に作れる期間なんです。
現在はその実績を土台に有償展開へと移行しています。 最初から売ることだけを考えるのではなく、信頼と実績を積み上げてから商業化へ進む──これはBtoGビジネス、特に公共セクターへの参入では非常に有効なアプローチです。
誰に売るのか──ターゲット設定の解像度が成否を分ける
──フィリピンでのターゲット顧客はどのような企業・機関ですか?
日本と基本的に同じセグメントを攻めています。 大きく分けると、公共セクターと民間企業の2つです。
公共セクターは、防災担当の行政機関や自治体です。 災害情報のリアルタイム把握は、行政の危機管理業務に直結します。
民間企業は、さらに3つに分けて考えています。
- まず報道機関。 災害速報の精度とスピードは競争力に直結するため、メディア企業のニーズは高い。
- 次にインフラ企業。 電力・交通・水道などのインフラ事業者は、災害時に設備の状況を迅速に把握して対応する必要があります。
- そして、店舗数の多い小売チェーンや製造業のサプライチェーン管理です。 災害時に「どの店舗が営業できるか」「どの工場・物流拠点に影響が出ているか」を素早く把握できることは、事業継続計画(BCP)の観点から非常に重要です。
現地法人より代理店──スタートアップならではの判断
──フィリピンでの販売体制はどのように構築しましたか?
現地法人の立ち上げは非常にハードルが高かったため、販売代理店を活用するモデルを選びました。 代理店が現地での営業活動を担い、私たちはその商談に同席するスタイルです。 直販なしで、すべて代理店経由で進めています。
これはスタートアップとしての現実的な判断です。 現地法人を作るには、人材採用・法務・経理・コンプライアンスと、膨大なリソースが必要になります。 プロダクトの海外対応と並行してそれをやるのは、リソースが限られたスタートアップには非常に厳しい。 代理店を通すことで、現地のネットワークと営業力を借りながら、自分たちはプロダクトと商談の質に集中できます。
ただし、代理店に任せきりにすることは絶対にしない。 商談には必ず自分たちも同席し、顧客との関係を直接把握します。 代理店マネジメントはこれからさらに本格化するフェーズですが、最も重視しているのは「自分たちと同じ熱量を持ったパートナーを育てていくこと」です。
中小企業への示唆: 海外での販売体制として代理店モデルは有効ですが、「任せきり」にすると顧客との関係が代理店に依存してしまうリスクがあります。 重要商談には必ず自社も同席し、顧客の声を直接吸い上げる仕組みを持つことが長期的な競争力につながります。
価格戦略──「下げすぎない」ことの重要性
──海外での価格設定はどのように考えていますか?
これは非常に重要なポイントで、多くの企業が誤解しています。 「新興国=価格を大幅に下げなければ売れない」という思い込みが強いんですが、私たちの経験ではそうではありませんでした。
日本国内では価格競争が発生することもありますが、フィリピンでは価格の引き下げ圧力はそれほど強くありません。 確かに購買力の絶対値は日本より低いですが、だからといって極端に安くしなければ売れないわけではない。 むしろ、適正な価値を適正な価格で提供することが、信頼の構築につながります。
「安くすれば売れる」という発想でプライシングすると、サービスの品質への疑念を生んだり、後から価格を戻せなくなったりするリスクがあります。 現地の購買力をリサーチした上で、「払える価格帯の中で最もバリューを感じてもらえる設定」を考えることが重要です。
公共セクターへの参入──人脈なくして道は開けない
──公共機関へのアプローチで特に難しかったことは何ですか?
人脈づくりです。 これに尽きます。
公共セクターは、民間企業との契約とはまったく異なるプロセスで意思決定がなされます。 予算サイクル、入札の仕組み、承認の階層──どれも複雑で、外から飛び込んでも簡単には入れない。 正しい窓口に、正しいタイミングで、正しいアプローチをするためには、内部に信頼できる人脈が必要です。
JICAのスキームを使ったのも、この人脈を作るための手段でもありました。 JICAを通じて政府機関との関係が生まれ、そこから横のつながりで他の行政部門や公的機関に繋がっていく。 信頼の連鎖を作ることが、公共ビジネスの基本です。
中小企業が公共セクターに参入する場合も同じです。 JETRO、JICA、現地の日本商工会議所、業界団体──こうした公的機関や業界ネットワークを通じて人脈の入り口を作り、そこから関係を広げていくアプローチが現実的です。
SaaSスタートアップが海外に出るために必要な「覚悟」
──最後に、海外展開を検討しているスタートアップや中小企業へのメッセージをお願いします。
一番伝えたいのは、海外展開は国内展開の延長線上にないということです。 言語・商習慣・法規制・情報環境・価格感覚、すべてが異なる。 それに対して「なんとかなるだろう」という楽観で動くと、必ずどこかで止まります。
同時に、「完璧に準備してから出る」を待っていると、永遠に出られません。 私たちもJICAのスキームで無償提供から始めた。 最初から有償で売ろうとしていたら、公共セクターへの扉は開かなかったかもしれない。 「まず現地に関係を作る入り口を見つける」ことが、海外展開の最初の仕事です。
プロダクトを作り直す覚悟、代理店を育てる忍耐、公共の人脈を積み上げる時間──これらすべてが海外事業のコストだと理解した上で、それでも出ていく理由があるかどうか。 それが、海外展開の最初の問いだと思っています。
まとめ|SaaS海外展開を成功させる5つの視点
Spectee 根来さんのインタビューから、SaaSおよびBtoB企業が海外展開を成功させるためのポイントを整理します。
- 「需要が構造的に存在する国を選ぶ」こと。 人気の国より自社サービスが最も必要とされる国を選ぶことが、参入後の競争力の源泉になります。
- サービスの種類にもよりますが、望ましいのはプロダクトを翻訳ではなく再設計すること。 翻訳レベルの対応では、現地ユーザーの本当のニーズには応えられません。 言語・情報環境・使用文脈に合わせた再設計が必要です。
- 信頼と実績を先に作ること。 JICAのような公的スキームやパイロット導入を活用し、まず現地での実績と関係を積み上げることが、有償展開への近道です。
- 代理店に任せきりにしないこと。 現地代理店は重要なパートナーですが、顧客との関係は自社でも持つことが長期的な競争力を守ります。
- 価格を下げすぎないこと。 新興国でも価格以上に価値を評価する顧客は存在します。 適正価格での提供が、ブランドと信頼の維持につながります。
取材協力:根来 諭 氏(株式会社SpecteeCOO) Specteeの企業情報: https://spectee.co.jp/history/
2026年4月取材