「海外で事業を立ち上げる」と一言で言っても、現実はどれほど複雑で、どれほどの時間と忍耐を要するのか。総合商社の食料部門で長年トレーディングと事業開発に携わり、ベトナムで製粉工場を一から立ち上げた佐々木さんは、「本当に大変なのは契約を締結してからです」と静かに笑います。
パートナー探しに2年、条件交渉に半年超、工場建設に1年半──そのすべてが「序章」に過ぎなかった。海外進出を検討している中小企業の経営者・担当者に、圧倒的なリアリティでヒントを届けます。
佐々木 拓郎さん 総合商社(食品部門)に1994年入社。食料部門でのトレーディング業務からキャリアをスタートし、スペイン語を習得しコーヒーのトレーディングも担当。その後、事業開発・事業投資にシフトし、ベトナムでの製粉合弁会社を副社長として立ち上げ。2011年から約7年をかけて事業を軌道に乗せた。現在は みなと中小企業診断士事務所の代表として 中小企業診断士の資格を持ちながら、生成AIの導入支援にも携わる。
トレーディングから事業開発へ──キャリアシフトが生んだ視野
──まず、佐々木さんの経歴を教えてください。
1994年に総合商社に入社して、最初は畜産部に配属されました。輸出入の実務、いわゆるトレーディングです。農畜産物を海外から仕入れて日本に持ってくる、あるいはその逆をやる仕事です。途中でスペイン語も習得して、コーヒーのトレーディングにも関わりました。産地から買い付けて、国内の卸売業者に販売する仕事ですね。
トレーディングは「もの」を動かす仕事です。マーケットを読む力や交渉力は磨かれますが、次第に「もの」ではなく「事業」を動かしたいという気持ちが強くなってきました。それで事業投資・事業開発にシフトしていくんです。そこで任されたのが、ベトナムでの製粉事業の立ち上げでした。
──「製粉事業」というのは?
小麦粉を作る工場を、ベトナムに新たに建てるというプロジェクトです。原材料の小麦を海外から輸入して、ベトナム国内で製粉し、卸問屋や 即席麵 メーカーに販売する。川上から川下まで、事業の仕組みをゼロから作る仕事です。
ベトナムを選んだのには明確な理由があります。インスタントラーメンの消費量が世界的に見ても非常に多い国ですし、フランス統治時代の影響でバインミー(バゲットサンド)文化も根づいていて、小麦粉需要が確実に存在していました。経済成長とともに食が多様化する中で、製粉市場は伸びると読んだわけです。
パートナー探しに2年──「ノックしまくった」日々
──合弁会社の立ち上げはどのように進めたのですか?
まず最初にやるべきことは、一緒に事業をやるパートナー企業を見つけることです。製粉は装置産業ですから、製粉技術を持っている会社でないといけない。台湾、韓国、マレーシア、日本……製粉技術を持っている企業にとにかく当たり続けました。
「ノックしまくる」というのが正直な表現で、断られても断られても次の扉を叩く。相手にとってもベトナムへの投資はリスクですから、なかなか首を縦に振ってもらえない。それに2年かかりました。
──2年というのは、想定内でしたか?
いいえ、最初はそんなにかかるとは思っていなかったです(苦笑)。でも振り返ると、パートナー選びを急いではいけなかった。事業が軌道に乗るまで一緒に走り続けることになる相手ですから、単に「技術がある」だけでなく、経営哲学や 採算管理 の考え方、リスク許容度なども合わないと、後で必ず摩擦が起きます。
条件交渉だけでも半年以上かかりました。合弁比率、意思決定の仕組み、利益の分配方法、撤退条件──こうした細部を詰めておかないと、何か問題が起きたときに誰も判断できなくなる。面倒に感じるかもしれませんが、ここを丁寧にやっておくことが、事業の安定性に直結します。
中小企業への示唆: 海外での合弁事業は、パートナー選定が事業の成否の大半を占めます。「技術がある」「規模が合う」という条件だけでなく、「この人たちと長期的に信頼関係を築けるか」を最重視してください。契約を急ぐことは後々のトラブルの元です。
「本当に大変なのは、締結してから」
──契約が終わってからはどうでしたか?
よく「契約できたらひと安心」と思われますが、そこからが本番です。まず工場をどこに建てるかという立地問題があります。電力・水・物流のインフラが整っているか、地盤は問題ないか(杭打ち検査をやります)、 shadow そして経済合理性として採算が取れるコスト構造になっているか。候補地周辺の聞き込みも含めて、非常に地道な作業の積み重ねです。
工場建設には1年半ほどかかりますが、その間、ただ待っているわけにはいきません。私が営業責任者でしたので、工場稼働に合わせて「開業初日からお客様がいる状態」にするために、建設中からプレマーケティング、つまり先行営業を始めました。
──工場もないのに営業するんですか?
そうです。ベトナム語を母国語とする営業担当者を採用し、バインミー(ベトナム版バゲット)の原料を取り扱う卸問屋を中心に飛び込み営業もしました。最初は「工場もないのに」と怪訝な顔をされることもありましたが、技術的な強みや品質の説明をしながら関係を積み上げていく。工場が稼働したときには、すでに納入先が決まっている状態にする。それが最初から目指した姿でした。
これは資金繰りの観点からも重要です。工場が動き始めても売上がゼロの期間が続けば、投資回収が大幅に遅れる。立ち上げ期の「早期黒字化」は、海外事業において特に意識すべきポイントです。
競合との戦い、採用の壁──ボトルネックはフェーズごとに変わる
──いざ事業が動き始めてからの苦労はどのようなものでしたか?
技術面では競合よりも優れた製品を作れていました。しかし、競合も黙ってはいません。価格を下げてきたり、せっかく開拓できたばかりの顧客に揺さぶりをかけてきたりする。顧客開拓は本当に大変でした。「良いものを作れば売れる」というのは幻想で、売れる仕組みを作り、関係を維持し続ける努力が不可欠です。
採用も大きな課題でした。ベトナムの優秀な若者には選択肢が多いので、給与だけでなく「この会社でどんな経験が積めるか」を魅力として伝える必要がありました。
形成に組織づくり。営業と開発が連動して動けるような体制を整え、次第にマーケティング機能も必要になってきた。「今のボトルネックはどこか」を常に問い直しながら、打ち手を変え続ける──それが7年間の実態でした。
中小企業への示唆: 海外事業は「立ち上げて終わり」ではなく、フェーズごとに異なる課題が次々と現れます。「今は何が一番のボトルネックか」を経営者・現場が常に共有しておくことが、迅速な意思決定の土台になります。
ベトナムという市場を、どう読むか
──ベトナムという市場の特性についてはいかがでしたか?
ベトナムは、非常にダイナミックな市場です。経済成長が続いており、若い人口構成と旺盛な消費意欲がある。食に関していえば、インスタント食品・パン・麺類の需要は構造的に伸び続けています。
ただし、「伸びている市場=簡単に参入できる」ではありません。成長している市場には、当然ながら競合も集まってきます。現地企業、他国からの外資、すでに参入している日系企業──それぞれが戦略を持って市場を取りに来ている。
また、商習慣や行政手続きのスピードは日本とは大きく異なります。「来週中に決めてほしい」と言っても、現地のパートナーや行政機関がそのペースで動いてくれるとは限らない。そこでフラストレーションをためてしまうと、関係が壊れる。文化的な時間感覚の違いを理解した上で、「どこまで急ぐか・どこは待てるか」を戦略的に判断する必要があります。
当時は飛び込み営業で培った現地のリアルな感覚が、事業判断の精度を上げてくれました。データや報告書だけでなく、「現場で感じたこと」を経営判断に組み込む姿勢は、海外事業において特に重要です。
合弁事業を成功させる「 仕組み 」と「人」
──改めて、合弁事業を成功させるために重要なことは何でしょうか?
大きく2つあります。「仕組み」と「人」です。
仕組みというのは、合弁契約の設計です。意思決定ルール、利益配分、撤退の条件、紛争解決の手続き──これらを事前に明文化しておくことで、いざ意見が割れたときにも冷静に判断できる。感情的な対立になる前に、ルールに戻れる仕組みが必要です。
人というのは、現地で一緒に動いてくれる人材です。 優秀なベトナム人 営業担当者を採用したことは、事業の成否に直接関わりました。現地語でコミュニケーションができると、顧客との関係の深さがまったく違います。また、パートナー企業の担当者との個人的な信頼関係も非常に重要です。 日々のオペレーションにおける 判断は、結局「この人を信じるかどうか」になる。
「仕組みがあっても、人がいなければ動かない。人がいても、仕組みがなければ崩れる。」それが7年間で学んだことの核心です。
生成AI時代の海外事業──今、佐々木さんが見ていること
──現在は生成AIの導入支援にも取り組まれているとのことですが、海外事業との関連はありますか?
非常に関係があります。海外ビジネスにおいて、生成AIは「情報格差を縮める武器」になり得ます。たとえば現地市場調査のスピード、多言語でのコミュニケーション補助、社内ドキュメントの翻訳・要約──これまで人と時間とコストが必要だったことが、大幅に効率化できる。
中小企業にとっては特に大きな恩恵があります。大企業のように現地スタッフを多数抱えられなくても、AIを活用することでカバーできる範囲が広がる。逆に言えば、AIを使いこなせない企業は、今後の海外事業でさらに不利な立場に置かれるリスクがあります。
総合商社での経験と中小企業診断士の知見を合わせて、今は「大企業のような仕組みを、中小企業のリソースで実現する」ための支援をしています。生成AIはその強力なツールのひとつです。
中小企業が海外事業で成功するために、最初にやるべきこと
──最後に、海外展開を検討している中小企業の経営者・担当者へのメッセージをお願いします。
まず「なぜその国なのか」を徹底的に言語化してほしいです。「その国が人気だから」「知り合いがいるから」という理由は、理由になっていません。自社の商品・技術・サービスが、その国のどんな課題を解決するのか。その需要は構造的に存在しているのか。ここが曖昧なまま動くと、どこかで必ず止まります。
次に、「時間のかかる仕事だ」という覚悟を持ってほしい。パートナー探しに2年、条件交渉に半年、工場建設に1年半──私の場合でさえそれだけかかりました。中小企業では経営者自身がこのプロセスに関わることも多いでしょう。そのとき、「まだ結果が出ない」という焦りが判断を歪める最大のリスクになります。
そして「小さく始めて、検証する」こと。最初から工場を建てる必要はありません。まず輸出から始めて現地の反応を見る、代理店を通じて小さく販売してみる、展示会に出展して引き合いを測る。こうした段階的なアプローチが、結果的に最も早く・最も安全に海外事業を育てる道です。
7年かけてベトナムで事業を軌道に乗せた経験から言えることがあるとすれば、「諦めない人が、最後に市場を取る」ということです。困難は必ず来る。でも、そのたびにボトルネックを特定して、打ち手を変えて、動き続ける。それが海外事業の本質だと、今も思っています。
まとめ|総合商社マンが教える、海外事業立ち上げの現実
海外事業は「決断」ではなく「プロセスの連続」です。佐々木さんのベトナムでの経験から、中小企業が海外展開で押さえるべきポイントを整理します。
フェーズ別・押さえるべきボトルネック
- 準備フェーズでは市場の構造的需要の検証と、信頼できるパートナーの探索。
- 契約フェーズでは合弁条件の細部詰め、特に意思決定・撤退・利益配分の設計。
- 立ち上げフェーズでは工場や拠点の立地選定と、稼働前からの先行営業。
- 成長フェーズでは現地人材の採用・育成と、営業・開発・マーケの連動。
- 安定フェーズでは組織の自走化と、競合対策・価格戦略の継続的な見直し。
海外進出は、スタートが見えにくく、ゴールも動き続けます。だからこそ、各フェーズで「今のボトルネックは何か」を問い直し続けることが、成功への唯一の道筋です。
取材協力: 佐々木拓郎氏(総合商社 出身 ・ みなと中小企業診断士事務所 代表 ) 2026年4月取材
参考資料: 商社マンの「実録」海外経営ノート: 失敗しない合弁・工場建設から黒字化まで。「経営理論×現場力」で勝ち抜く実践ガイド(佐々木拓郎 著)